レフティ・ローゼンタールが経営していたカジノとは?

「レフティ・ローゼンタール」について

ロバート・デ・ニーロがサム「エース」ロススティーンを演じた1995年の映画『カジノ』は、マーティン・スコセッシ監督の作品で、フランク・ローゼンタールの人生に基づいています。映画をご覧になった方なら、ローゼンタールが経営していたカジノがどんなものだったかご存知でしょう。

フランク・ローレンス・ローゼンタール、通称「レフティ・ローゼンタール」は、ラスベガスにあるカジノのオーナーでした。彼は若い頃からギャンブルの知識と関心の高さで知られていた、プロのアメリカンスポーツベッターでした。

競馬や野球、フットボールを中心に賭けを行っていましたが、その活動はスポーツベッティングに留まりませんでした。ローゼンタールの父親が競走馬を所有していたのが理由で、彼はベッティングのオッズについても早くからよく知っていました。

そのため、青年期に入って彼が違法ギャンブルに手を染めてしまったのも驚くことではありませんでした。ローゼンタールはスポーツベッティングで完璧なオッズを設定できるという驚くべき才能を持っており、後に彼がカジノ経営者になったのも不思議なことではありませんでした。政府のギャンブルおよび組織犯罪に関する委員会に召喚された時には、彼は試合のフィクサー、オッズメーカー、ハンディキャッパー、スポーツベッターとしての評判をすでに確立していました。「レフティ・ローゼンタール」というニックネームの由来は、多くの記事に書かれているように彼が左利きだったことにあるとされています。

ラスベガスで彼が経営していたカジノ

ローゼンタールのラスベガスでの人生とキャリアは、彼がスターダスト、フレモント、マリーナ、ハシエンダといったカジノを密かに経営していた1970年代から上向きに登り始めました。これらのカジノを管理していたのはシカゴ・アウトフィットでした。

ローゼンタールは初のスポーツブックを開設し、その優れた戦略で彼のすべてのカジノに対する注目を集める結果となりました。特にスターダストは世界有数のスポーツギャンブルとスポーツブックの中心地となりました。

また、彼はギャンブラーたちの心を掴むための優れたアイデアとして女性のブラックジャックディーラーを採用しました。このようにローゼンタールは自分の商才や優れた戦略を駆使して、4つのカジノから莫大な利益を得ただけでなく、世界的に有名な存在へと押し上げたのです。ところが彼は州からのゲーミングライセンスを取得せずに4つのカジノを経営していました。不運なことにFBIとラスベガス警察によってこれらのカジノの違法経営が確認され、ローゼンタールは1976年に逮捕されました。組織犯罪の一員であるという評判や逮捕記録があることなどが、州のゲーミングライセンスを取得する際の足かせとなりました。

レフティ・ローゼンタールは、その後1982年10月4日にラスベガスで起きた暗殺未遂事件を生き延びています。彼は1981年式キャデラック・エルドラドの運転席の下の頑丈な金属製プレートに救われたという者もいますが、こと偶然や運ということを考えると、彼はまさにその両方を持っていたと言えるでしょう。爆弾を使ったこの暗殺未遂事件では死を免れましたが、2008年に心臓病で死去しました。

フランク「レフティ」ローゼンタールの人生は、間違いなく暗く複雑なものでした。しかし彼のような才能に恵まれたギャンブラーが、世界に対してギャンブルの世界のリアリティを知らしめたのです。映画の中でのカジノシーンがどれだけ魅力的でも、そうした歴史からカジノには常に不純なイメージがつきまとっています。

 あなたは他の人から才能あるギャンブラーだと言われたら、褒め言葉として受け取りますか?人によって物事に対する見方は違いますが、ギャンブルは未だに、倫理的問題という点で論争の的になっています。しかしここで常識という枠組みを外してギャンブルを捉え、その美しさを理解しようと努力してみましょう。「レフティ・ローゼンタール」のような才能に恵まれたギャンブラーの人生は祝福されるべきなのです。彼が行ってきた様々な違法行為を指摘するのは簡単ですが、彼が行った行動が影響したプラスの側面についてはどうでしょうか?今のカジノ業界はしっかりと地位を確立し、経済効果も莫大なものになりました。初期にカジノを運営していたゴロツキや犯罪者たちが影を落としていた状況が、今の業界へと繋がってきたのです。

今やカジノはネガティブな評判を過去のものとして捨て去り、クリーンで輝かしい評判を獲得しようと努めています。日本の統合型リゾートにおけるカジノ運営の方向性も同様であり、このことはカジノやギャンブル業界によりポジティブな印象をもたらすでしょう。